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『ダイバーズ!』 第二章 【黒い影】

茶色い木製の壁が続く廊下に緑色のカーペットがまっすぐに伸びている。木崎敏夫は白衣のポケットに両手を突っ込み、薄笑いを浮かべながら歩いていた。
 来年度予算案編成時期の急な呼び出し。ようやく、あの馬鹿にもおれの研究の偉大さがわかったらしい。ここに入所して以来、論文を出すことも学会で発表することも禁じられ、二十年以上、飼い殺しにされてきた。研究費も望みの額よりいつも一桁小さなものしか与えられなかった。

 だが、おれはやった。

 生命の新しい形を見い出した。これからは、おれの時代がやってくる。木崎は金文字で「本部長室」と書かれた重厚な木製ドアの前に立つとノブを回して中へ入った。
「ノックくらいしたらどうなんだ」
 応接セットの奥に置かれた広い机の本部長席に座る西原が、露骨に不快な顔をして木崎に視線をぶつけてきた。丸々と太った顔に金縁の眼鏡を掛けている。五十二歳の同い年だが、世渡りのうまい西原は、いまやこの防衛省基礎技術研究本部の本部長様だ。木崎は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま応接セットの三人掛けソファーにどっかりと腰を下ろすと、ソファーに背をもたれ掛け、足を組んだ。
「ポケットから手を出すと寒いんでね。ああ、でもここはおれの研究室より数倍暖かいな」
 木崎はポケットから右手を出すと、肩まで伸びた長い白髪を掻き上げた。木崎を見ている西原が、こわばらせた顔の前で両手を組んだ。
「安西智美が戦死した」
「えっ」
 思わず西原の方に顔を向けて、もたれ掛かっていたソファーから体を引き起こした。
「戦死って、どう言うことなんだ。安西がいるのは仮想空間専門部隊だろ。リアルにドンパチやる部隊じゃない」
「相変わらず自分の研究分野以外は何も知らない奴だな。仮想空間の戦闘だって負ければ死がある。自衛隊で死者が出ていなかったのは、危なくなったら強制的に引き揚げていたからだ。米軍じゃ二日に一人は仮想空間の戦闘で死んでいる」

「仮想空間の戦闘なんて、タウンに作った仮想人格を操作するだけだろう。体はこっちにあるんだから死ぬ道理がない」

 西原が両手を組んだまま俯いて顔を横に振った。

「本当に何もわかってない奴だな。まあ、いい。確かにおまえがいう通り、安西の体はまだ生きている。死んだのは精神だ。安西は植物人間になった」

「植物人間だと。意識が戻る可能性は無いのか」

「無い。だが体は生きている。だから厄介なことになったんだ。このままだと、あの失敗作が世間に漏れる危険性がある」

「失敗作だと! あれはまだ途中の段階なだけだ。調整し直せば、予定通りのものに仕上がる」

 そう言いながらも、確実に元の軌道に戻せるかはわからなかった。予想を超えた壮絶な拒絶反応だった。何とか体に押し込めたのは、予想していなかった安西の強靭な精神力のおかげだった。あれがなかったら、あの女は確実に死んでいた。

 西原が机を叩いて怒鳴った。

「おまえの研究なんかどうでもいい! あれが世間に知れたら、おまえだけじゃなく、おれもおしまいだ! 関わった人間全員が社会的に抹殺される。おれがおまえに聞きたいことは、あの体を放っておくと何が起きるかだ! 答えろ! あれは生きたままだと、どうなっていくんだ!」

 そんなことはわかるはずがない。あれは暴走したままの状態だ。その暴走は段階を踏んで止めるつもりでいた。暴走した体組織がどうなるかなんて、わかるはずがなかった。

「植物人間化して、どれくらい経つんだ」

「戦死したのは一時間ほど前だ」

 自衛隊の作戦行動は機密事項だ。自衛隊の内部とは言え、一時間前に出た戦死者のことが研究部門に伝えられるようなことはない。

「一時間前だと。何でそんな機密事項をおまえが知ってるんだ」。そこまで言って気がついた。「そうか。あいつが動いてるってことか」。木崎は唇を舐めた。顔から冷たい笑いが漏れた。