『ダイバーズ!』 第十五章 【父親の使命】 ②

夜空に向かって何本もの高層マンションがひしめき合っている。四角い巨人が肩を寄せ合って沢田を見おろしているようだった。沢田の部屋があるマンションに入ると、誰もいない冷え冷えとしたエレベータホールに沢田の靴音がこだました。四基のエレベータが二基ずつ向かい合わせで並んでいる。ボタンを押してドアが開くと乗り込んだ。酒臭い。酔っ払いが乗っていったにおいが充満している。いら立ちと不快感にじっと耐えた。

 

「ただいま」

「お帰りなさい」

 家の奥から留美の声がした。おそらくキッチンにいる。玄関で靴を脱ぐと、ダイニングのドアを開けた。たっぷりと水分を含んだ暖かい空気がまとわりつくように沢田を包んだ。シチューの香りがする。尖っていた気持ちが和らいだ。

「すぐ食べられるわよ、着替えてきて」

 ドアが閉じている奥の部屋では沙紀が眠っているはずだ。これが家庭だ。幸せの確かな手ごたえを感じた。プライバシーのない監視の世界。そう言い放った黒木冴子は家庭の幸せを理解していない。正常な世界に戻ってきたように思えた。

 

 解いたネクタイをクローゼットにかけていると、留美が入ってきた。

「沙紀ちゃんの受験の話なんだけど」

 穏やかさを求めていた気持ちがいきなり折られた。五歳になる娘の沙紀。留美の希望は沙紀を小学校から留美と同じ学校に入れてしまうことだ。留美の出身校、超一流大学の付属校。留美は四歳のころから、塾と家庭教師を付けられて、小学校を受験し、そのまま大学まで進学した。お嬢様育ちの留美にとっては、ごく当たり前のことだが、沢田にとっては別世界の話だった。留美の言いたいこと。わかっている。金の話だ。

「わかってるけど、今日はもうこんな時間だし、疲れてるから週末にしてくれ」

 マンションのローンを抱えて、留美が望むような受験環境を整える資金は無かった。

「週末になれば、また寝てるだけじゃない。わたしだって、切り詰められるところは切り詰めてるのよ。ずっと先延ばしにされてるけど、塾の入学テストの前に家庭教師で勉強を始めさせないと、もう間に合わない。ちゃんと考えてよ」

 留美が生活費を切り詰めていることは知っている。毎日、時間があればネットでスーパーの安売り広告を調べている姿を見ているからだ。

「考えるよ、ちゃんと考えるから。でも、出ないものは出ない。入ってくる金は決まってるんだ」

「じゃぁ、どうするのよ。もう時間がないのよ」

 留美の声がひきつっている。沢田の声、いつの間にかふてくされていた。

 夫婦仲は決して悪くない。むしろ、世間レベルで見れば、仲の良いおしどり夫婦に分類されるはずだ。結婚から七年たっているが、沢田は今も留美を心から愛している。留美も家事全般をていねいにこなし、遊ぶこともせずに、沙紀を育てている。円滑に回っていた家庭の和。きしみを上げ始めたのは、住宅ローンを背負ってからだ。車も売却したが、生活は楽にならない。留美との暖かい会話を、ぎすぎすした金の話が侵食していった。

 テーブルに着くと、留美が夕食を運んできた。サーモンの塩焼き、ホワイトシチュー、野菜の炒めもの。留美は手作り料理を欠かさない。口に運んだ。いつもの留美の味だった。心が温まっていく。向かい合わせに座る留美の顔を見た。うつむいたまま強直した顔がとげでおおわれていた。

「今日は、こんな時間だし、明日も仕事なんだから、もう風呂入って寝る」

 逃げだ。楽しい話なら、まだまだ今夜も話すことはできる。あてのない金の話。週末になったからと言って、解決する見通しなどない。とりあえず先延ばしにして逃げただけだった。

「いつまで待てばいいのよ。最低でも一年は家庭教師に見てもらわないといけないのよ。わたしだって、二年間、家庭教師をつけてもらってたんだから。受験で落ちてからじゃ、どうしようもないのわかってるの?」

「わかってるよ。だからちゃんと週末に話をするって」

「こんなんじゃ、ちゃんと合格できるか毎日不安でたまらないでしょ。わかる? 一家の大黒柱として、ちゃんと必要な生活はさせてよ」

「風呂入ってくる」

 胃に夕食を流し込んで、席を立った。

 

 風呂から出てくると、留美はテーブルで端末の画面を開いていた。声をかけてみたが、返事はない。怒っている。留美が見ている画面。スーパーの安売り情報だった。胸が痛んだ。結婚を申し込んだとき、留美にこんな不安な思いをさせることになるとは想像していなかった。姿勢良く伸びた留美の細い背中。小さなころの留美の姿を想像した。子供らしい真っ赤なミニスカート姿の留美。裕福な両親に守られてなんの不安も無く、笑顔があふれる毎日。こんな生活をするために育ってきたはずがなかった。

 自衛隊をやめる。できるはずがない。黒木冴子がいった。四十手前の沢田に就職口などない。取り返しのつかないことをするところだった。