『ダイバーズ!』 第三章 【未帰還者】 ①

「タカオ」

 妻、留美の柔らかい呼び声で目が覚めた。白と淡い水色の部屋。暖かい太陽の光が差す窓には白いカーテンがかかっていた。沢田が目覚めたのはベッドの上だった。誰もいない病室。なんでこんなところにいるのだろう。頭の芯がしびれている。目を細めて記憶をたどりながら、目だけであたりを見回した。病室で寝ているにいるということは、倒れでもしたのだろうか。なにか危険な目にでもあったのだろうか。

 危険、危険、危険。

 とつぜん背中に冷や水を浴びせられたような戦慄が走った。沢田の頭を戦闘の記憶が突き抜けた。慌てて起き上がり、掛布団を跳ねのけた。点滴が倒れ、大きな音を立てたが、気してはいられない。

 あった。

 目の前で動く両腕。掛布団の下からは裸の両足が現れた。沢田は現実の世界に戻っていた。また留美と沙紀に会える。無邪気に笑う沙紀の顔が浮かんだ。目頭が熱くなり、涙が溢れた。震える両手で顔を覆うと嗚咽した。

(沙紀、パパ帰れるよ。 留美、隠してて、ごめんな。おれ、もうこの仕事やめるよ)

 病室のドアが勢いよく開き、白いナース服の看護婦が駆け込んできた。

「沢田さん、大丈夫ですか!」

「はい、はい、大丈夫です。僕はもう大丈夫です! 大丈夫だから、家へ帰ります」

 帰りたかった。留美と沙紀に会いたかった。裸足のまま立ち上がって着替えを探した。視界が回った。足元の床がぐんにゃりと歪んだ。頭の中で脳が泳ぎ回っているようだった。思わずベッドに手をついた。

「沢田さん。大丈夫ですから落ち着きましょう。まずは横になって」

 沢田をベッドに押し戻そうとする看護婦の両腕を掴んだ。

「僕は今、家に帰りたいんです。大丈夫ですから放っておいてください」

 いら立ちがつのっていく。看護婦と揉み合いになった。頭の中で脳がぐらぐらと揺れた。

「奥様にも、お子様にも、いつでも会えます。沢田さんの、こんな取り乱した姿を見たら、驚きます。ここは自衛隊の特殊病院ですから、なんの心配もいりません。まずは落ち着いてください」

 再び病室のドアが開き、白衣を着た若い医師が駆け込んできた。

「どうしたんですか! 沢田さん。落ち着いてください」

 医師も沢田を押さえにかかってきた。いら立ちで頭が破裂しそうになった。

「帰らせてくれ!」

 叫んだ。沢田の腕が医師の顔に当たって、医師が掛けていたフチ無しメガネが床に落ちた。沢田の裸の足がメガネを踏みつけた。バリっとしたレンズが割れる感触。足の裏で激痛が走り、ベッドの上に倒れ込んだ。三角形に割れたレンズが足の裏に刺さっている。血が赤い涙のように筋を引いて流れ出した。

「けがを見ますから、じっとしてください」

 ぜいぜいとした激しい呼吸で言葉が途切れている。医師が屈みながら両手を自分の膝の上において、肩で息をしていた。 

「傷の手当てを」

 医師が顎の先を振って指示すると、看護婦は病室を走り出ていった。痛みで押さえた足の下で、白いシーツが赤く染まっていった。

 医師が息を切らしながらいった。

「沢田さん、もう何の心配もいらないんです。見ての通り、ここは病院です。家に帰るって、まだ昼過ぎなんですよ。帰るには早いでしょう」

 窓の外に見える太陽は、まだ高い位置にいた。

「僕は何時間眠っていたんですか。今日は何日なんですか」

 沢田もまだ息が切れている。

「眠っていたのは二時間ほどです。今日は二〇九九年の十二月十六日です。いまの時間は午後一時です。日を超えたりしていません。沢田さんが眠っていたのは仮眠程度の時間です。まだ普通の就業時間中なんですよ」

 就業時間中。急速に気持ちが落ち着いていった。足の裏がじんじんと痛んだ。

 看護婦が小さなカートを引いて戻ってきた。医師がカートからピンセットと薬のボトルを取り出した。

「ここは、わたしがやるから、君は新しいシーツを持ってきて」

 再び看護婦が病室を出ていった。

 沢田が痛みで足首を押さえている右足の裏を、医師が両手の親指で探るように押した。医師はレンズの破片をつまむと、注意深く、ゆっくりと沢田の足の裏から引き抜いていった。足の裏から血塗られたレンズが伸び出した。

 

 傷口の治療を終えると、医師は沢田の足に包帯を巻いた。メガネを失ったせいで、見えづらいらしく、時折、目を細めている。

「気分が悪いことはありませんか」

 落ち着いた声。

「目が回って、頭がふらつきます」

「戦闘での極度の興奮で、脳内に神経伝達物質が過剰に放出されたせいです。落ち着いて、点滴を済ませれば正常に戻ります。心配することはありません」

 安定した語調と心地良く響く声。天性のものだろうか。医師の発する言葉が心を落ち着かせた。

 戻ってきた看護婦が血で汚れたシーツをベッドから引きはがし、真っ白なシーツを広げた。すべてがなかったことのように思えた。

 看護婦に促されてベッドに横になると、医師が沢田の腕に点滴の針を刺した。

「まだ、精神面での衝撃が残っているようですが、心配しなくて大丈夫です。外傷は何もありませんし、脳波も正常でした。じきにバーチャル空間酔いも覚めて楽になるはずです。かなり激しい戦闘から帰還したと聞いていますが、すべては夢だったと思っていただければ、酔いから覚めるのも早まるでしょう」

 正常、その言葉が沢田の溜飲を下げさせた。手も足もある、脳にも障害はない。

 すべては夢。だが夢では片付かない事実もあった。

「僕の同僚は。一緒に仮想空間にいた他の三人は、どうなったんですか」

 医師の右瞼がピクンと動いた。

「慌てないでください。わたしに言えることは、いま、沢田さんの健康状態は何の心配もいらないということです。他のことについては、別の方が説明にくることになっています。焦らず気を楽にしてお待ちください」

 医師が点滴のラインに注射針を刺した。

「気持ちを落ち着ける薬です。もし、気分が悪くなるようでしたら、そのボタンを押してください。すぐに看護婦がきますから」

 強い眠気が襲ってきた。薬のせいだ。意識を保っているのが辛くなった。このまま眠ってしまうことに迷いを感じた。気になることが細菌のように頭の中に湧き出した。

「この薬はどのくらい効いてるんですか」

「二時間ほどです。目が覚めてもまだ明るい時間ですから、気を楽にしてください。目が覚めたら脳内のバランスもとれて、めまいやふらつきも消えているはずです」

 サイドテーブルに置かれた四角く白いデジタル時計に目をやった。午後一時三十二分を表示していた。